カメラ半生を反省する。

写真とカメラと共に歩んだ20年。

この年度末で社会人生活20周年を迎えるらしい。
非常に恐ろしいことだ。20年間、いったい何をやっていたのだ。

私は社会人1年生で初めてカメラを手にし、それ以来ずっと途絶えることなく写真を撮り続けている。
私にとって写真を撮るきっかけはカメラそのものであり、「写真を撮りたいからカメラを買った」のではなく、「カメラ(とMacBook)を使いたいから写真を撮りに行っていた」が正解だ。

「カメラじゃなくて写真の話をしよう」のアンチテーゼのような人間である。

FUJIFILM X-T2 (XF60mmF2.4 R Macro, 60mm, f/5.6, 1/30 sec, ISO200)
初カメラはGR DIGITAL Ⅱだった。(写真はGR Ⅲx)

とはいえ、カメラから入ったというのは導入にすぎず、それだけをもって「写真を目的にしている人間の方がカメラから入った人間より上」という単純な上下構造で語られたくはない。

実際、撮りたい構図のためにレンズを新調したこともあるが、それが機材購入を同期として撮影した写真より優れていたわけでもない。

長いことこの趣味をやっていて、いろいろなことを試した。
買って、売って、出かけて、撮って。
そんななんの変哲もない経験を経た、私の現時点での結論。

「撮りたい写真から逆算して機材を選ぶのも楽しい。」
「使いたいカメラから被写体を選ぶのも楽しい。」
だから、趣味の領域では、どちらも価値があるし、両立しうる。

Canon EOS R6m2 (RF50mm F1.2L USM, 50mm, f/2.5, 1/80 sec, ISO2000)
このカメラで撮影した写真も、このカメラも好き。

私はこれからも、撮りたい被写体が増えたら機材を買うし、魅力的な機材の購入をきっかけに被写体を探す旅に出る。

それくらいでいいんだよ、趣味なんだから。

モノか、思い出か。

「モノより思い出。」

昔の日産セレナというファミリーカーのキャッチコピーが、一生頭から離れない。

それだけ自分の意識に刺さった、いいキャッチコピーなんだと思う。
いいキャッチコピーって、それについて想いを巡らせられるものなんだと思う。
だから、このキャッチコピーを作った人はすごい、と単純に思う。

FUJIFILM GFX50S II (SEKOR C 80mm F1.9, 80mm, f/1, 1/16000 sec, ISO200)
一人で撮った海岸線も、思い出。

とはいえ、じゃあこのキャッチコピーに賛同するか、と問われると、実は全くそうではない。
むしろ逆の立場だ。

私にとって、モノを探すこと、物を手に入れることはライフワークのようなもので、「次はこんなモノが欲しい」「こんなモノがあればいいのに」と、日々そんなことばかり考えている。
私はモノ派なのだ。

上述したキャッチコピーの言うことも、ものすごくわかる。

旅行・結婚・育児といった、ライフイベントを経験すること。
各種イベントに参加し、実際に体験してみること。

そういった「思い出」は人生経験を豊かにし、かけがえのない財産になる。

だから、とても大事なものだという意見には賛成だ。
が、「思い出が、どんなモノよりも高次元である」とは断定できないと思う。

Canon EOS R3 (RF50mm F1.2L USM, 50mm, f/1.2, 1/60 sec, ISO100)
このプラモを作っていた時間も思い出?

モノは裏切らない(例外はあるが)。
そのスペックに見合った体験を、価値を所有者に与える。
人それぞれ感じ方は違うだろうが、客観的にはその代償(金銭)に見合った価値を享受することができる。

対して、「思い出は」いいことばかりではない。
それを経験することが糧にならないどころか、人生にとってマイナスになる「思い出」は存在する。

人はそれをトラウマという(アドラー心理学では否定されているが)

思い出に価値がないとは言わない。
「モノを手に入れることが私にとってかけがえのない思い出」なのだ。

つまりあれだ。

「モノは思い出」なのだ。

Canon EOS 5D Mark IV (EF50mm F1.2L USM, 50mm, f/5, 1/125 sec, ISO100)
モノと思い出。

本日の1枚

FUJIFILM GFX100S (Planar T* 80mm F2, 80mm, f/4, 1/800 sec, ISO200)
置き去られた子供靴に思うことは特にない。

カメラ:GFX100S
レンズ:Planar T* 80mm f2